人は、完全情報を渇望する本能がある。
「神はいるのか?いないのか?」
もともとは、神の存在を証明するために「科学」という学問が始まりました。とはいえ、神の存在は証明できるものではないので、それはもはや「科学」ではないのです。ややこしい話になってきますが、「科学」の世界では、確実に証明できる事しか「科学」として認められないのです。つまり、神が確実にいると証明されるか、神が存在しないと証明されるかです。しかし、そんなことは不可能なことなので、結局、「科学」では神の存在を証明することはできないのです。
「神が人を作り出したのか?人が神を作り出したのか」
神がこの世を作り出し、人を生んだと主張する人もいれば、人が「神」という存在を作り出したと述べてる人もいます。神の存在は証明できることではないので、こんなことで議論するのは、不毛だと言えるのですが、ただ1つだけ言えることがあります。
それは、「人は完全情報を渇望する本能がある。」ということです。己の不完全さ、不安定があるから完全情報(真理)を求めます。厳に世界中の人が神を信仰し、宗教を信じます。古代から現代まで宗教というのは、なくなりません。己の生が不安定なものであるから、「完全情報」を求めるのです。例えば、昔の日本人は、地震や天災、噴火、飢饉などの自然災害が起こるとそれを「神様の怒り」と考えていたそうです。当時は、科学も発達していなかった時代ですので、それらの因果関係などもわかるはずがありません。
それゆえに、「不完全なもの」に対処するために、「神様の怒り」という理屈をつけたのです。
「不完全」に対処できる抽象的な教え
宗教というのは、不完全な状況を改善するための「教義」があります。身内の死や治療困難な病、事故で下半身不随などの状況になって、「どうして私がこんな目にあっているんだ!」と思っている人に対して、
「あなたがそうなったのも神様の試練。自分の人生を見つめなおして本当の人生を生きてほしいと神様が思われたのです。感謝してください、神様の御心に。神様の祝福に。神様への信仰心を持って下さい。毎朝祈ってください。信仰心を持つ限り、神様はあなたを決して見捨てません。」
これは、一例ですが、不安な感情をいだいている時に、それに上手く精神的に対処できる抽象的な方法を教えるのが「宗教」と言えます。具体的だと当てはまらないパターンがありますが、抽象的な教義だと後は、各々が勝手に具体化して当てはめて自己説得してくれます。だから、宗教は人間が自分では対処できないことに対しての精神的な対処法を教えるものだと言えるでしょう。
こういった因果関係がはっきりとしない「不幸」は誰でも起こり得ることなので、その時の不安な感情を抱え込んでいる時に、「精神薬(?)」のように、人々に与えると誰でもそれにすがりたくなります。なぜなら不完全は、怖いからです。信者っていうのは、こういう風に増やしていくんですよ。
実は、これ。情報ビジネスにも同じようなことが言えます。基本、情報を渇望している人は、今の不安定な状態が嫌なわけであって、よりよい情報を求めているわけです。だから、あなたがそういう人たちに対して・・・・・・「完全情報」を提供していると思われることが大切なわけです。
人間なんで「完全情報」を提供するのは、実質不可能です。けれども、他人からそう思われることは意外と可能です。人は、自分より優れた情報を持っている人のところに集まるのです。
追伸
(もしかして、今回の話は難しすぎたかもしれませんが、まあ、分かる人だけ分かればいいと思います)